


▼宮瀬英治のイラクにおける活動が掲載されました。
国際協力団体「風の会」会長の宮瀬英治さん(26)が、このほど戦地の混乱が続くイラクの子どもたちに文房具などを贈るために現地を訪れた。寄付金と勤め先のボーナスや給与を合わせた70万円。「現地の子どもたちの追い風になりたい」と、宮瀬さんは語る。
宮瀬さんは早稲田大生当時の99年、風の会を設立。大学を休学してアジア各国を1年間放浪した経験から「厳しい状況で生きる子どもたちの力になりたい」と思った。
教材販売会社に勤める。夏休みを利用して、6月13日から22日まで現地を訪れた。
ヨルダンのアンマンで鉛筆2千本、ノート2千冊、消しゴムなどを約 500ドル分購入してからバグダッド入りした。 宮瀬さんが向かったのはバグダッド北東部のサドルシティ(旧サダムシティー)。通訳兼運転手を雇って、地元の小学校を回った。大半の校舎は破壊され、校庭はゴミ捨て場と化していた。
ある学校の校長先生に文具を渡したところ、周囲に集まってきた人たちから「我々にも金を配れ」と要求された。「教育が大事だ。ただ物を上げるのではない。子供の可能性にかけたい」との説明を繰り返したが、興奮して銃を持ち出して来る人も。「まず地域のリーダー役に交渉してから活動を始めました」
文房具以外に黒板や、冷蔵庫の購入、校舎の修理などに資金を充てた。
「ノートや鉛筆はもちろんだが、危険な中こうして来てくれた、その気持ちがうれしい」 校長からそう言われた時、「本当に来てよかった」と感じた。 「ぎりぎりの状況の中で生き抜いている子どもたちを、これからも援助し続けていきたい」
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▼宮瀬英治のイラクでの活動が掲載されました。
▼国際協力団体「風の会」会長で会社員の宮瀬英治さん(26)=東京都板橋区=が、 イラクのバグダッドを近く再び訪ねる。現地では日本の外交官2人が殺害されるなど治安は悪化している。
あえて危険を冒すのは、この夏に出会った子供たちとの再会の約束を果たし、元気づけるためだ。
今年6月、夏休みを利用してバグダッド東部のサドルシティー(旧サダムシティ―)を訪れ、
小学校を20校ほど回った。学校は荒れ、校庭には机やいすの残骸が散乱していた。
それでも子供たちは口々に「勉強したい」と言った。
自分のボーナスと支援者からの寄付を合わせた70万円で買った鉛筆やノートを配った。
「医者になりたい」「私は先生」。希望を失わない子供たちの笑顔が胸に残った。帰り際に約束した。
「また来るからね」
イラクでは1歳ぐらいの女児とも出会った。鼻の奥に腫瘍があるといい、「助けてほしい」と父親に懇願された。
手持ちの資金はすでに尽き、何もできずに別れた。父親の無念そうな顔が頭を離れなかった。
今回の訪問では校舎の修復に加え、この女児の治療も実現させたいと考えている。
用意した資金は自分のボーナスと寄付の計約100万円。
「今イラクに行くのは正直言って怖いが、怖さに勝る思いがある」と宮瀬さんは話している。
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東京や岡山を拠点に中東やアジアの子どもたちを支援している国際協力団体「風の会」会長で、会社員の宮瀬英治さん(27)=東京都板橋区=は12月下旬から1月上旬にかけて、イラクのバグダッドを訪れ、文房具や医薬品を届けた。「子どもたちの顔を直接見ながら、『頑張れ』と応援する思いを伝えたかった」という。
イラク時間1月1日午前0時。バグダッド市内のホテル4階の1室で眠っていた宮瀬さんは、鳴り響く銃声に跳び起きた。空が赤く光っていた。『また空襲が始まったのか』と思い、恐る恐る窓の外を見ると、大勢の男たちが空に向かって機関銃を撃っていた。手荒い新年の祝いだった。流れ弾を避けるため、冷蔵庫の影に隠れて過ごした。銃声は30分ほど鳴りやまなかった。
昨年12月24日、成田空港を出発した。半年前にも、会社の夏休みを利用して、バグダッドを訪れていた。鼻の奥に腫瘍がある1歳くらいの女児に出会ったが、この時に果たせなかった治療を実現するのが、今度の旅の目的だった。
「危険すぎる」「いまは行かないで」。出発前、家族や友人たちの猛烈な反対にあった。日本の外交官2人が殺害された11月末以降、連日のように現地の治安悪化が報じられていた。「万が一のことがあれば、みんなに迷惑がかかる」と直前まで迷ったが、早く女児の治療を実現したい思いが勝った。
ヨルダンの首都アンマンから陸路でバグダッドへ。「国境を越えたら地獄が待っているんじゃないか」。何度も不安がよぎった。
バグダッドの空気は半年前とは一変していた。爆薬を積み、車ごと突っ込むテロを避けるため、大きな建物の前には急ごしらえのコンクリート壁が建てられていた。銃を手にしたまま市内を歩く市民の姿も目立った。郊外にあるサドルシティー(旧サダムシティ―)の小学校を、毎日のように訪れた。フセイン政権下で抑圧されたシーア派の住民が多く、低所得者層が多いとされる地域で、米軍も各国のNGOの姿もほとんど見られなかった。
校庭にサッカー場を作るように提案した。校長は「ひと月もすればグランドのひと月もたてば、グランドの土まで盗まれてしまうだろう」。断念せざるを得なかった。
校長らとの話し合いで、文房具や暖房、電球などを贈ることに決めた。会社のボーナスと寄付を合わせた140万円のほとんど文房具代に使った。1冊80枚のノート3万冊に、鉛筆2万5千本。むやみに学校に配っても、盗みや略奪の対象になりかねないため、倉庫を借り、月に1度、学校の先生が取りに行く仕組みにした。
腫瘍がある女児の行方や安否はわからなかった。その代わりに、日本人のうわさを聞いた親たちが聴覚に障害のある3人の子どもを連れてきた。14歳の少女は先天的な障害で両耳がふさがっており、ほとんど聞こえなかったが、耳を切り開く手術をするよう手配して別れた。医師の診断では、残る2人は手の施しようが無かった。「医者になって、貧しい人たちを助けたい」という夢を話していた少年とも半年ぶりに再会した。「頑張っているか」と尋ねると、少年は自分の拳で胸をポンとたたいて行った。「約束通り、頑張っているよ」。誇らしげな笑顔に報われた思いだった。
旅の途中、現地の男性と日本の自衛隊派遣について意見を交わす機会もあった。「米国と同じかだから、日本のアーミーが来るのは反対だ。でも、お前みたいなやつは歓迎するよ」
仕事始めの1月5日午前、成田空港に到着。その足で会社に向かった。
13日前の旅を終えた今、宮瀬さんはこう思う。 「一人ひとりの顔を見ながら、ささやかでも、確かな幸せを贈ることができるのなら、それが本当の復興につながるはずだ」